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2014.5 個展ー渇望、刻み込まれた「人間たる所以」の跡

李 旻河(イ・ミンハ):渇望、刻み込まれた「人間たる所以」の跡
朴 世姸(パク・セヨン、美術理論)

イ・ミンハは、紙と革に祈りを書く作業をして来た。そのために作家は多国語の祈りを収集し、それらを一文字ずつ筆写する。そしてその過程を経た画面には国家と宗派、人種を超えて集まった多様な言語の祈りが交差、重畳し創り上げられた多彩な形跡が残る。

このように祈りというテキストを用いて作業をしているため、一見既成宗教に対して表現しようとしたものように考えられるが、実際に作家が注目しているのは、「繰り返してある行為を行う人々の態度や心得」である。作家ノートによると「祈る」行為は、「聖」と「俗」という人間性のジレンマが表出される接点に見られ、人間なら誰でも自分の安慰を最優先にする本能を持っているが、それと共に利他的であり、より高い次元を志向する心も持っているのではないかという話だ。すなわち、作家は祈りの目的が世俗的なものであろうが、崇高なものを志向することであろうが、何かを切に求めて望む祈りという行為自体が持つ真実性に注目し、「祈り」を人間の本質、人間たる所為を最もよく表せるテーマであると想定したのである。

祈りを筆写するに至った過去の作品では、韓紙に筆と墨で繰り返し線を描いた作品がある。薄墨を重ね、反復する「線描」行為を通じて、作家は無我の境地に近い没入を経験し、反復行為の修行的な側面を自覚できたのであろう。筆写というものは、やはり昔から現在まで行われてきた宗教的な修練の一つの方法であるということを思うと、線描行為と経典や祈りを筆写する行為の類似性に着目し、現在の制作へ続いていることが分かる。

最初、紙に鉛筆で筆写することで始まった作業は、その材料が革と焼きごてへと変わり、続けられてきた。興味深いところは、材料を紙から革に変えたきっかけが、狂牛病に関するニュースだったということだ。人間のために大量殺肉される動物を見て、人間性を失っていく過程を見たのである。また作家は昔から疎かにあしらわれ賎民の業であった革産業に内包された差別と抑圧の歴史まで思い浮かべる。このような連想作用は、作家がこれらの問題を始め、戦争や宗教紛争など、人間たる所以とその喪失について感心も持ち、悩んで来たことが素地になっている。

鞣した牛や豚、羊革の上に焼きごてで祈りを焼き刻む作業。革の上に熱くなった焼きごてで焼き刻むと、革が焼ける臭いと煙が生じるが、作家はその臭いと煙から戦争や飢餓、虐殺などの問題を思い出す。聖なる祈りを筆写すると同時に肉が焼かれる臭いが生じる。そさらに革を焼き刻み、文字を刻印して行く過程は破壊的な性格を帯びている。このように矛盾した属性が生じる点が、作家が感心を持っていた複数の問題を喚起させ、祈りの筆写作業は続いていく。

作家は、作業過程を通じて経験し、感じたものを観客と共有するために、様々な試みを行ってきた。観客の前で公開制作をし、観客が直接感じるようにしたり、作家の代わりに筆写する装置を考案し、設置された完成作品と共に作業が進行していく過程を見せたりした。今回の展示では、観客が作品を体験できる独立した空間を演出したが、暗い密室のように造り上げた空間の中に入ると、大きなスクリーンが見え、そこに人体のシルエットが巨大に映される。スクリーンに近付いていくと、腕と手の動きに注目できるが、このシルエットは、革に祈りを筆写する作家のものであると推測できる。もし意識できなくても、暗い空間に映された映像の光と静けさの中で、何処からか聞こえてくる風の音、何かを繰り返して書いている巨大な人影の前で、一人で立っている観客は、様々な感覚が敏感に反応し、その時間と空間の中で作品を余不足なく経験できるように導かれる。

今回の展示タイトルである「アナポラ(Anaphora)」は、「思い出すこと(ἀναφορά)」に由来し、修辞技法の中で首句反復を意味する。作家は引き続き祈りを筆写する行為を繰り返し、同時にその行為を通じて人間の本質に対する問題を思い出させたいという意図を含めている。そして上記で言及した映像インスタレーション作品は、「内的平安」という意味の「へシュキア(Hesychia)」という作品名で、俗世に足を掛け生きている人々に精神的な高揚を通じ、内的平安を経験できればという希望的な願いを込めている。

イ・ミンハは、線の濃淡効果を焼きごての温度と筆写する際の手の圧力で調整して出しているが、ひとつひとつ、焼きごてを当て痕跡を残していく作業方式は、水墨画の濃淡表現や一筆書きとの類似点が感じられる。このように伝統絵画の経験を活かしながら、革と焼きごて、映像インスタレーションなど、様々な媒体へと拡張していく彼女の作品の行方は今後どうなるだろう。古代人が燔祭壇を設け、生け贄を焼き、天に捧げる祭祀儀式を通じ、神との疎通を試みたように、作家は革に祈りを焼き刻むことを通じて世と疎通しながら、より高い次元との疎通を熱望しているかもしれない。このような熱望がこれからも表現の方式に拘泥されること無く、発現されてゆくことを期待する。

2014年5月、グロアーツベリーギャラリーでの個展リーフレットから抜粋

2010.10.24 中日新聞ー小さな祈り 

世談「小さな祈り」

論説主幹・深田実、中日新聞

もう十四、五年も前のことだが、イスラエルのテルアビブとエルサレムの間の峠道辺りにある「平和の村」と呼ぶ実験的共同体を訪ねたことがあった。

宿敵同士のユダヤ人とアラブ人が同じ村落に住み、一つの集会所、一つの学校を使う。融和の芽になるかもしれないと国際的話題となっていた。祈りの場も一つ。村外れの見晴らしのよい場所にある建物はおわんを伏せた半球型。装飾なし。入ると広さは十畳ほど。ここをユダヤ教徒もイスラム教徒も使う。座っていたら、男が入ってきて瞑想を始めた。祈り方は自由、説法を聞きたければ出かける。

宗教を争いの道具にするなという主張がここにはある。

それを思い出させたのは、名古屋で開催中の国際芸術祭あいちトリエンナーレの出品者の一人、李 旻河(イ・ミンハ)さん(韓国出身、三十歳)の仕事。彼女は世界中の祈りの言葉を集め、電熱ごてに似た器具で獣皮に焼き記し、それを作品としている。宗教が共通して求めるものを知りたいということだった。居合わせた象牙海岸出身の黒人青年は、現地のアカン語で「互いに愛せ」という意味の言葉を寄せた。

小さな祈りは世界中にあるに違いない。いつかかなえられてほしい。

2010.10.24 中日新聞、日本

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2010.10 上勝滞在記:上勝と鹿刺身

上勝滞在記:上勝と鹿刺身
李 旻河

初めて訪ねた上勝町、外国人の私の目には、きちんと整えられている田舎の風景を眺めることで、雑草ひとつも許せない日本庭園らしき洗練さを、なぜかフッと思い出しました。
約半月間、加藤さんと共に坂松宅にお邪魔することが決まっていましたが、生実久保の一番高いところにある坂松宅は、運が悪く携帯の圏外でした。
もちろん、コンビニとか自販機という現代を代表する便利なものが無いということは知っていましたが、運転免許も車もない私にとっては、足がないまま山奥に閉じ込められたかのように感じるところでした。
そこで思ったのは、「携帯が使えない」ということをきっかけに、今までの忙しい日常を切り離し、自然と作品に集中してみようと思いました。とにかく、規則的に起きてご飯を食べ、しっかり体を動かしながら、瞬間的に入ってくる大自然の恵みを体で感じ取ることで、毎日充実した時間を過ごしました。

その中で知り合った住民の方々に招待され、交流の機会も増えつつ、上勝の日常の中で、都会っ子の私には、非日常的に思える要素を探検する毎日でした。元々、肉食に関する興味が深く、革を素材として扱っている私にとって、偶然出会った子鹿は、興味津々の対象でした。ある日の飲み会で鹿を話題にすると、翌日美馬さんから鹿刺身が坂松宅に届いて来ました。
馬刺は以前食べたことがありましたが、その日の朝捕れた新鮮な鹿肉は、何とも言えない味でした。すだちとゆずが主人公の味付でしたが、あの素朴な感覚は、上勝ならではの手厚い持て成しだと思います。私にとっては、逆にあの鮮度が、味と生々しさを超え、人間の肉食に関する欲望を振り返ってみるきっかけになりました。

普通、私達がお肉を食べて新鮮だと感じる味は、アミノ酸の味であり、ある意味では血の味と言っても過言ではないと思います。お肉というのは、大体スーパーで綺麗な形で切られ、パックに入っているものなので、その動物の元の形を想像することも難しい程、都市に住んでいる私達のお肉に対する感覚は、日々鈍くなっています。死んだ動物の体が腐り始める段階の状態で、私達の毎日の食卓に上がっているのです。食堂やスーパーで、刺身3点盛りのような少量のものは、毎日のように見ていますが、直径30cm程の大きいボールにいっぱい入っている鹿刺身は、味はともかく、見た目のボリューム感があり、まさに子鹿と会うような気持ちになりました。

次の日、作品設置現場に向かって、小さい山を歩いて登っていると、目の前に広がる棚田や畑の風景が、今までとは違う目線で見えてきました。農作物も肉も私達の命のために、循環している大きい自然のエネルギーの一部であるということです。

風でゆらりと動く稲穂の波。
その棚田と一緒に曲がりくねった道。
それこそ、神様に辿り着く道のように見えてきたのです。

2010年10月27日

2007.4 パブリックアートー水平的な現実と垂直的な飛翔への夢

水平的な現実と垂直的な飛翔への夢

李 旻河(イ・ミンハ)の作品を初めて見た時、思い浮かんだのは、李箱(イ・サン:小説家、本名:金海卿(キム・へキョン)、1910〜1937)の「羽」という小説の一節だった。

“羽よ、また出なさい。飛べ、飛べ、飛べ、もう一度飛んでみよう。
もう一度飛んでみなさい。”

羽が出るせいでよく脇がかゆかったといった、一人の敗北主義者の死に至る直前の瞬間。しかし、それは死ではなく著者の美しい`理想`へ向けて近付く歩みだと解釈することもできるだろう。我々にとって羽は神の領域へと通ずるものであり、`飛翔`を夢見て理想を尋ね求められるようにしてくれる媒介体である。 李旻河の巨大に広がって行く羽は小説の主人公の叫びのように死と理想の間で感じられる感情をそっくりそのまま伝えている。細く縛られた筆線と手の労動が集約された画面は、空間の中で浮遊しながら、2次元の平面だけとどまるのではなく3次元の空間へと飛び出し、我々の身を包み飛び立たせてくれるようである。

そして、厳かに繊細に揺れ動き、120度しか見られない視野を越える存在は、威圧感と恐怖感まで催させる。作品をのぞき見るのに先立って、黒い巨大さは私たちの目を盗んで、羽を敬虔に崇高にさせる装置として作用したのだ。また、縺れた黒い糸巻きは光を吸収するブラックホールのようであり、その深みを見積り、内部をのぞき見るのぞき見にくい。しかし注意深く見続ければ羽の中に展開された線の重ねは、山脈とも、水の形象ともなり広がって行く。

そして「自然での帰依による快」という作品では羽の中に中国宋代の画家、范寛の「谿山行旅圖」を模写することでこの事を仄めかしているのだ。作家ノートによると先人達が絵の中で`休`を得たように、自然を身近に置きたいという思いを羽に織り込み表現する事で、平安を得るのだと言う。このような考えは彼女が`設置会話`と言う概念に基づいている。巨大な画面が見せてくれる空間への積極的な介入は、描かれた自然の中に鑑賞者の精神が吸収されたのではなく、始めから画面自体が外へと歩み寄ることによって生まれている。そこで私たちは、遥か彼方に隠れている感情の糸口を汲み取るようになる。

ソ・ジョンイム記者、月刊パブリックアート2007年4月号より

2007.3 個展ー感情に出会う鏡

李 旻河 − 感情に出会う鏡
バック・ヨンテック (美術評論、ギョンギ大学校教授)

 大きな長紙(韓紙)に墨と青墨、粉彩、色鉛筆などで限りない線を引いて、羽のような固まりを描いてみせている。羽の一方だけが画面にぶら下げられている形だが、それは特定の鳥の羽と言うよりは観念的に存在する、私たち意識の中に浮び上がるそんな羽のイメージと似ている。羽は鳥だけではなく天使や神仙もつけていたし、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Da Vinci)よりずっと先立ってダイダルス(Daidalos) みたいな人などは初めから蜜蝋で羽を作ってつけていた。このように、古今東西を問わず昔の人々は羽に対する強烈なあこがれがあったみたいだ。高句麗では人が死んだら棺に鳥の大きな羽を副葬してくれた上に、鳥の羽毛で管帽を飾った。以後、韓国服の線や朝鮮家屋の軒などが皆、その羽に対するあこがれと欲望から出たのだ。重力の法則に抵当された人間たちがこの現実係からの飛翔や脱出を夢見た時、よく羽を思い浮かべたことは今も同じだ。

 多少常套的ではあるが、自由意志や既存社会のフレームと慣習、価値に対する挑戦などを表現するために、よく羽のイメージが借用される。羽は飛翔や超越、脱重力とも関係があるが、彼女の場合、この羽は特定の羽のイメージや先立って述べた意味のカテゴリーから逸脱したように見える。ここで羽のイメージは純粋な造形的の側面で借用されているようだ。そして羽の形象が線の増殖やどこかへの志向性、流動的な運動感と生命性の充溢などを可視化するにあたり、適切な形態に感じられる。同時に抽象的な線の表現より多少の具体性を持つから、そして網膜に対する訴えと集中には效果的だから借用されているような印象だ。それでも実存的な内容がないとは限らない。

 羽の形象の内部はぎっしり詰まった線が髪の毛のように、根や呼吸のようにくっついて緻密に組立てて専ら増殖されて行く状態、その期間と時間性を見せてくれるのだ。結局、彼女は線を可視化し、線の使われ方と用例、線の表現と東洋画の伝統的な線の意味に対する研究の次元で羽のイメージを積極的に選択していると見える。

 同時にこの羽の形象をした黒い固まりは非常に巨大なサイズである。人の身体性を超えたサイズは果てしなさと崇高さ、恐ろしさと圧倒感を感じさせる。長紙を何枚かつなぎ合わせてその中を煙のように、雲のように解けて行く黒い線の軌跡と集積は、まるで紙(画面、羽)が空間の中へ滑り、忍び込むように過ぎ去りながら、無限に膨脹しているような感じを与える。横の膨脹と縦の膨脹を交代に見せてくれる画面はそれぞれ視線をふさぐ無限さと物理的な空間としての深みを抱かれてくれる。この巨大さはまず作家にとっては苦労な労動と修練を与える。それは自分治癒的でもあって克己や超越にもっと近い行為である。

 また広々とした画面に限りなく線を引くという身体性の行為を通じて何かをやって行くこの作業は、結果を予測しにくい、一瞬間に自分の中へ沒入するその時間性がどんなに重要なのかを知らせてくれる。紙の断面は漠然たる空間でありながら壁でもあり、絵描く瞬間ごとに不可避に出くわす恐怖を与えてくれる実存的な場である。そしてその空間に描きながら作る行為を完全に乗せているという印象を受けた。とにかくこの巨大なサイズは作家自分の労動の跡をもっと確実に見せるための空間に選ばれた。同時にその底には崇高さと宗教性の跡形もゆらめく。崇高さと精神主義に対するイメージの証左!

 作家は細長い線を詰め入れて黒い固まりを作った。ここで線は何かを再現しようとする目的性を消したまま、それ自体で意味のある生涯を生きて行こうとする。線が指示性と明示性、再現のわなから抜けて自らの存在を形成して行くタイプの絵である。ほとんど墨で描いている線は黒い色彩の固まりや糸巻き、黒い羽毛で成り立った羽を描いて見せる。彼女はこの黒色だけで成り立った単色の画面に暗くて恐ろしい未知の領域と言う意味を上に載せた。そうであるかと思えばこの黒い色は他人を押えつけたがる欲望とも関連があると言っている。同時に黒(闇)はすべての万物の根源で芽を芽生えさせる子宮の役割とも関わりがあり、「玄」といってすべての色を可能とする肯定の意味も持っている。特にこの黒い色は彼女に無限な深みと驚きを与えるので選ばれた。

 そのためか彼女は観客にとってこの絵が畏敬や恐怖、崇高、賛嘆のような感情に出会う鏡になることを願っている。具体的な対象が消された単色の画面を通じて、観客たちが自分を省みる鏡であることだ。その側面でこの絵は既存の絵/作品とは距離を置いたまま、何かを指示して再現するよりは絵を話題にして直観的に悟らせて感じらせる一種の禅画的な要素が強く感知される。これは視欲と見どころが余る同時代の美術に逆説的に沈黙と貧しいイメージを提供しながら、観照と直観の力を換気させる方に近いのだ。私たちは彼女が描いておいた、黒くて暗い巨大な羽のイメージの前に直立していれば、純粋な線の生命力と充溢、同時に無限さと崇高さを与える秘儀的な体験に遭えるだろう。こういう意味ではこの絵は設置的な絵画であり、空間と観客の身体に関与する水墨画、水墨ドローイングでもありながら、ひいては精神的な活力を刺激する直観的や観照的な絵の一側面を現わしている。

2007年3月、トポハウスでの個展リーフレットから抜粋