上勝滞在記:上勝と鹿刺身
李 旻河
初めて訪ねた上勝町、外国人の私の目には、きちんと整えられている田舎の風景を眺めることで、雑草ひとつも許せない日本庭園らしき洗練さを、なぜかフッと思い出しました。
約半月間、加藤さんと共に坂松宅にお邪魔することが決まっていましたが、生実久保の一番高いところにある坂松宅は、運が悪く携帯の圏外でした。
もちろん、コンビニとか自販機という現代を代表する便利なものが無いということは知っていましたが、運転免許も車もない私にとっては、足がないまま山奥に閉じ込められたかのように感じるところでした。
そこで思ったのは、「携帯が使えない」ということをきっかけに、今までの忙しい日常を切り離し、自然と作品に集中してみようと思いました。とにかく、規則的に起きてご飯を食べ、しっかり体を動かしながら、瞬間的に入ってくる大自然の恵みを体で感じ取ることで、毎日充実した時間を過ごしました。
その中で知り合った住民の方々に招待され、交流の機会も増えつつ、上勝の日常の中で、都会っ子の私には、非日常的に思える要素を探検する毎日でした。元々、肉食に関する興味が深く、革を素材として扱っている私にとって、偶然出会った子鹿は、興味津々の対象でした。ある日の飲み会で鹿を話題にすると、翌日美馬さんから鹿刺身が坂松宅に届いて来ました。
馬刺は以前食べたことがありましたが、その日の朝捕れた新鮮な鹿肉は、何とも言えない味でした。すだちとゆずが主人公の味付でしたが、あの素朴な感覚は、上勝ならではの手厚い持て成しだと思います。私にとっては、逆にあの鮮度が、味と生々しさを超え、人間の肉食に関する欲望を振り返ってみるきっかけになりました。
普通、私達がお肉を食べて新鮮だと感じる味は、アミノ酸の味であり、ある意味では血の味と言っても過言ではないと思います。お肉というのは、大体スーパーで綺麗な形で切られ、パックに入っているものなので、その動物の元の形を想像することも難しい程、都市に住んでいる私達のお肉に対する感覚は、日々鈍くなっています。死んだ動物の体が腐り始める段階の状態で、私達の毎日の食卓に上がっているのです。食堂やスーパーで、刺身3点盛りのような少量のものは、毎日のように見ていますが、直径30cm程の大きいボールにいっぱい入っている鹿刺身は、味はともかく、見た目のボリューム感があり、まさに子鹿と会うような気持ちになりました。
次の日、作品設置現場に向かって、小さい山を歩いて登っていると、目の前に広がる棚田や畑の風景が、今までとは違う目線で見えてきました。農作物も肉も私達の命のために、循環している大きい自然のエネルギーの一部であるということです。
風でゆらりと動く稲穂の波。
その棚田と一緒に曲がりくねった道。
それこそ、神様に辿り着く道のように見えてきたのです。
2010年10月27日