水平的な現実と垂直的な飛翔への夢
李 旻河(イ・ミンハ)の作品を初めて見た時、思い浮かんだのは、李箱(イ・サン:小説家、本名:金海卿(キム・へキョン)、1910〜1937)の「羽」という小説の一節だった。
“羽よ、また出なさい。飛べ、飛べ、飛べ、もう一度飛んでみよう。
もう一度飛んでみなさい。”
羽が出るせいでよく脇がかゆかったといった、一人の敗北主義者の死に至る直前の瞬間。しかし、それは死ではなく著者の美しい`理想`へ向けて近付く歩みだと解釈することもできるだろう。我々にとって羽は神の領域へと通ずるものであり、`飛翔`を夢見て理想を尋ね求められるようにしてくれる媒介体である。 李旻河の巨大に広がって行く羽は小説の主人公の叫びのように死と理想の間で感じられる感情をそっくりそのまま伝えている。細く縛られた筆線と手の労動が集約された画面は、空間の中で浮遊しながら、2次元の平面だけとどまるのではなく3次元の空間へと飛び出し、我々の身を包み飛び立たせてくれるようである。
そして、厳かに繊細に揺れ動き、120度しか見られない視野を越える存在は、威圧感と恐怖感まで催させる。作品をのぞき見るのに先立って、黒い巨大さは私たちの目を盗んで、羽を敬虔に崇高にさせる装置として作用したのだ。また、縺れた黒い糸巻きは光を吸収するブラックホールのようであり、その深みを見積り、内部をのぞき見るのぞき見にくい。しかし注意深く見続ければ羽の中に展開された線の重ねは、山脈とも、水の形象ともなり広がって行く。
そして「自然での帰依による快」という作品では羽の中に中国宋代の画家、范寛の「谿山行旅圖」を模写することでこの事を仄めかしているのだ。作家ノートによると先人達が絵の中で`休`を得たように、自然を身近に置きたいという思いを羽に織り込み表現する事で、平安を得るのだと言う。このような考えは彼女が`設置会話`と言う概念に基づいている。巨大な画面が見せてくれる空間への積極的な介入は、描かれた自然の中に鑑賞者の精神が吸収されたのではなく、始めから画面自体が外へと歩み寄ることによって生まれている。そこで私たちは、遥か彼方に隠れている感情の糸口を汲み取るようになる。
ソ・ジョンイム記者、月刊パブリックアート2007年4月号より